柄澤照文 / 足助エリア

 

皆さんは自分たちの住んでいる町の文化や歴史、由来についてどれくらい知っていますか? 街の歴史や風土を調査しながら、当時の姿を絵に描き起こしている柄澤さんにお話を伺いました。

 

 

–––旅をしていたと伺いましたが、具体的にどんな感じだったんでしょうか

 

柄澤さん 「『自分たちの普段見てる道や地名の語源はなんだろう?』と思って、その歴史を知りたくなり旅にでました。住んでいた岡崎から長野県の飯田まで、南北交通の塩の道を辿る旅です。それが絵を描きながら旅をすることになったきっかけでしたね。足助に出会ったのはその旅の途中でした」

 

–––今、足助で活動時間の多くを過ごしていらっしゃいます。そのきっかけは何かあったんでしょうか

 

柄澤さん 「足助と関わるようになったのは旅で訪れた後の頃です。足助で塩の道について詳しい人がいないかと尋ねたところ、当時の足助屋敷館長さんを紹介されました。そこで仲良くなって、足助屋敷のパンフレットを作ってほしいと頼まれたんです。それが最初の関わりです。そのまま足助屋敷に泊まりながら、半年ほど腰を据えて絵を描いてました」

 

–––その時の足助の印象は?

 

柄澤さん「旅で各地を訪れましたが、足助は面白い人が多いです。町そのものが文化的なものに対して感度が高くて、そういうものに対して物腰が柔らかい感じ」

 

–––そういう風土って、歴史的になにか理由があるんでしょうか?

 

柄澤さん「やはり交易の要衝であった歴史が関係しているんでしょう。豊かな町だったからじゃないかな。金持ちは文化的な素養がないといけない、っていう意識があったと思います。僕みたいな世間に名の知れていない人間が来ても興味を持って相手をしてくれるのは、そういう土地柄でないとね」

 

1度目の旅から戻った柄澤さんは、岡崎70周年にあわせて旧市街地の絵を描いたり、文化史年表を作ったりされたそうです。
そして2度目の旅行では東北、北海道まで足を伸ばします。
旅の中で調査し、絵を描いていくうちに、その活動について朝日新聞から声がかかり、紙面への連載も。
それ以来、広告の仕事の依頼も増えていきました。

ですがその流れの中で、『やりたいから』という活動と、依頼を受けてお金になる仕事とでは、自分の内面への響きが異なることを実感することになります。

 

–––現在ライフワークとされている屏風制作をやろうと思ったきっかけは?

 

柄澤さん「自分がやりたくないことを続けていたらダメになってしまうと気が付き、朝日新聞の広告仕事は辞めました。自分のやりたいことを続けて、それが結果的にお金になるならいいが、依頼を受けて何かを描き続ける生活は自分にはできなかったんです。

辞めてから10年間は何をしたらいいか見えませんでした。そんな時に、旅をしている際に見た江差(北海道)の屏風をみた感動を思い出したんです。庶民の暮らしから何もかもを書き込んでしまう屏風絵は面白いと気が付きました。
まずは、岡崎の城下町をテーマにして、自分も屏風絵を作ってみようと考えました。3年くらいかけてようやく1枚が完成。そして10年後の今まで屏風制作を続けてきて、現在5枚になります。それでまた人生が楽しくなってきたんです。やりたいことが溢れ出てきて、毎日頭の中が忙しい(笑) 」

 

 

柄澤さんの最新の屏風絵は足助の武将、足助次郎重範公を題材にしています。(9月26日まで足助屋敷にて展示されています)
現在の足助が、はじめて関わった当時と比べてどんな感じか、その印象をうかがいました。

 

柄澤さん 「だいぶ変わりましたね。豊田市と合併したあたりから、足助としての個性が薄れてしまった感じはします。仕組みが大きく変わって、人の繋がりが途切れて去ってしまった人も沢山いる。
でもまだ足助屋敷には面白い人が沢山いますね。そういう人たちが発信する力を持てるような仕組みや、面白い人たちを育てる仕組みを作っていくことで、「足助らしさ」を取り戻すことはできるんじゃないかなぁと思いますけどね。大変かもしれないけど、頑張ってほしいと思います」

 

 

柄澤さんは、足助の11月、「香嵐渓もみじ祭り」には、毎日出店。
心がホッとする和紙絵や、手びねりの粘土干支など、とてもカジュアルな作品を販売されています。
ぜひお立ち寄りください。